観葉植物・ハイドロコラム

2021.07.30

ハイドロカルチャーの歴史(4) プラネットの歴史

室内緑化の歩み

メンテナンス

ハイドロカルチャー

プラネットの歴史の前に

当社は、現在ではハイドロカルチャーによる観葉植物を生産していますが、昔は土の観葉植物の生産を行っていました。現在の社名はプラネットですが、以前は大十園という名前の会社でした。
プラネットの歴史を語るうえで、また、日本の観葉植物の歴史を語るうえで非常に重要な役割を果たした、大十園の成り立ちからお伝えしていきたいと思います。
大十園

温室による植物生産のはじまり

日本における温室による植物の営利生産は、豊橋市北島町が発祥の地です。ここで豊橋温室園芸農業組合が1929年(昭和4年)に設立され、その設立に大林浅吉が参加しました。浅吉の長男であった大林十郎は、〇浅(まるあさ)を創業し、トマト・温室メロン・電照菊・玉シダなどの温室栽培を始めました。
その後、十郎の息子である大林英夫が栽培を引き継ぎ、屋号を改め大十園としました。
電照菊栽培は、当時豊橋で盛んになりましたが、徐々に南の田原市等に広がり栽培が大規模化していくと価格競争が激しくなっていきました。
現在でも、電照菊栽培が盛んで、豊橋市をはじめ渥美半島全体で、全国の30%を占める電照菊が栽培されています。また、このあたりは太平洋の黒潮の影響で、雪はほとんど降ることが無く、温暖な気候です。
現在でも電照菊の他、キャベツやダイコン等の露地野菜や、トマト、ナス、メロン等のハウス野菜が広く栽培されています。
電照菊

観葉植物生産への転換

1953年(昭和28年)、大林英夫は、採算性が悪くなった電照菊の栽培から、新しい栽培品目として観葉植物の生産を試み始めました。
当時はまだ、観葉植物は世間的に注目されておらず、また大林英夫自身も未経験分野の栽培であったため、数年間は研究を重ねる毎日で、この時はまだ収益化の道筋は見えていませんでした。

1959年には現在の豊明花き市場の前身となる、日本観葉植物株式会社が設立されました。これが日本で最初の鉢物専門市場の誕生となり、観葉植物の生産と流通体制が確立し始めていくことになりました。
北島町
北島町
北島町

生産規模の拡大と研修生

観葉植物生産は軌道に乗りはじめましたが、当時の生産農場のあった北島町付近は住宅開発が進み、日当たりも悪く、このままでは十分な生産量が確保できなくなりました。その為、広い土地を求め、1964年(昭和39年)に豊橋市郊外であった南大清水町(現在の当社所在地)へと移転しました。
大林英夫は、ここを新天地として新たに観葉植物生産を始めました。
済んだ空気と十分な光量を確保できた農場では、以前の農場よりも植物の生長が優れ、効率的で大規模な栽培ができるようになりました。

観葉植物の生産が軌道に乗ると、国内の観葉植物普及のために、1960年(昭和35年)頃から多くの研修生を受け入れてきました。
埼玉県を中心とした関東圏や、三重県、沖縄県などから観葉植物栽培を習得するために、多くの研修生が訪れました。彼らはやがて研修を終えると、地元に戻り、新たな観葉植物生産者として独立し、国内の観葉植物普及に寄与しました。
昭和40年代 大清水1
昭和40年代 大清水2
大清水
大阪万博
大友会

大十園が開発・生産し、その後日本で普及した観葉植物

大十園は、生産規模を拡大し、海外から日本ではまだ生産されていない観葉植物を導入した栽培にも力を入れると共に、独自の品種開発にも力を入れ、国内の室内園芸の発展に尽力しました。
下記は、大十園が生産を始めた品種の一例です。

・斑入りポトス(ゴールデン)
・細葉クロトン
・グズマニア ファイアークラウン
・コンシンネ トリカラー
・コンシンネ レインボー(USパテント取得)
・ゴム ロブスター
・シェフレラ ホンコン
・フィカス ベンジャミナ
・スパティフィラム メリー
・アンスリウム エリザベス

特に、コンシンネ レインボーは大十園独自品種で、当時はアメリカやヨーロッパへ輸出され、高く評価されました。
グズマニア マグニフィカ ファイアクラウン
スパティフィラム
スパティフィラム

植物組織培養法による植物生産の始まり

新品種の開発を進めるにあたっては、悩みの種がありました。
それは、新品種は一挙に大量生産ができないという問題です。
新しい植物が枝変わりでできることがありますが、それを増やすには、挿し木や株分けで増やすため、売り出すまでには何年もの長い歳月がかかりました。
しかし1980年頃になると、植物組織培養法という増殖方法が開発されました。この植物組織培養法は当時では全く新しい技術でした。大十園ではこの方法をいち早く取り入れ、新品種を短期かつ大量に生産できる体制ができました。
1985年つくば科学博覧会のみどり館の館内には、大十園が制作した、組織培養の過程(植物スパティフィラム)が展示され、昭和天皇にもご観覧頂きました。

下記の動画で、ごく一部ですが映像がありましたのでご紹介します。(39分23秒ー48秒)

つくば未来博 みどり館
つくば未来博 みどり館
つくば未来博 昭和天皇

適地適作分業リレー栽培の取り組み

植物組織培養法を確立することで、新たにリレー栽培という方法が生み出されました。
別会社を設立し、適地適作の方針のもと協業できる国内の様々な生産者グループをとりまとめました。そして、大十園が植物組織培養法で増殖させた苗を、沖縄の生産者へ送り育苗し、半成品(2.5~3寸ポットサイズ)されたものを愛知・三重・千葉県の生産者へ送り、完成品にして全国に販売しました。
成品生産の増殖・育苗など、全ての作業を行う従来の生産者とは異なり、分業システムにより、効率化とコストダウンを図ったのです。
また企業的な販売展開も推進しました。
当時、まだ新しい植物だったスパティフィラムをリレー栽培で大規模に栽培し、大手企業と提携しTVCM等を利用して大々的に販売しました。
スパティフィラム
リレー栽培
組織培養

日本で初めてのハイドロカルチャーによる観葉植物生産

当社がハイドロカルチャーに取り組んだのは、1984年になります。
当時、女性向けの靴を製造していた株式会社神戸レザークロス(現ワールドグループ)が新規事業の一環として、ルワサハイドロカルチャーの代理店契約を結び、ハイドロカルチャー資材の輸入を開始しました。
その折に、当社へ植物生産の依頼があり、観葉植物の生産ノウハウを活かして日本で初めてのハイドロカルチャーによる観葉植物生産が始まりました。

当時、既にヨーロッパではドイツを中心にハイドロカルチャーが普及しており、小売店販売や特にグリーンサービス(貸鉢)の分野での利用が進んでいました。
ハイドロカルチャーの機能性やコンピュータによる管理制御との相性等、従来にはない先進性と実用性はヨーロッパでの実績を見れば明らかでした。
さらに日本の生活様式では、部屋の中を土足で入りません。用土が清潔で鉢皿のいらないハイドロカルチャーは、日本では欧米よりも受け入れられやすい環境だったといえます。
当時、大十園の専務だった大林英夫の息子である大林修一は、今後の日本におけるハイドロカルチャーの普及を目指すべく、新たな取組を開始しました。
ハイドロ ドイツ
ドイツ 観葉植物

コンピュータによるによる無人温室管理

ハイドロカルチャーによる養液栽培システムを導入したことで、従来の土栽培とは異なり、機械的な管理ができるようになりました。
PC、センサー、モデムによる通信により遠隔でも環境情報が取得でき、遠隔操作ができるようになりました。農場を無人化でき、作業が大幅に軽減、効率化が進みました。この頃はまだ、電話回線による遠隔操作でしたが、徐々にセンシング技術や自動制御が取り入れられていきました。
遠隔管理

グリーンサービス事業を起業

1988年6月(有)大十園の専務であった大林修一が退職し、埼玉県三郷市で独立起業をしました。
東京の顧客向けに植物レンタル、室内緑化事業を開始し、2年後1990年(平成2年)株式会社プラネットを設立しました。
1993年より(有)豊橋市にある大十園の観葉植物生産農場を継承し、土植え生産からハイドロカルチャー植物生産に切り替えました。それから小売店向け卸販売と室内緑化を行うグリーンサービス事業へ本格的に乗り出しました。
プラネットでは今日に至るまで、33年以上のの長い月日の中で様々な場所でハイドロカルチャーに
よるグリーンサービス事業を展開しており、今後は全国の同業者に広めるプランツネットワークの輪を
広めています。
マナハウス