観葉植物・ハイドロコラム

2021.05.14

ハイドロカルチャーの歴史(3) 観葉植物の歴史

室内緑化の歩み

メンテナンス

ハイドロカルチャー

観葉植物のはじまり

今日のように、一般家庭で室内に観葉植物を取り入れるようになったのは、歴史的に言えば、ごく最近の事です。
しかし、遠い異国の植物を自分たちの生活に取り入れるようになったのは、11世紀頃が始まりと言われています。
11世紀頃にキリスト教徒の間ではエルサレムへの巡礼が流行し、西欧の人たちが東方へ目を向けるようになりました。当時のエルサレムはイスラム王朝の統治下にあったため、ローマ教皇が聖地奪還を呼びかけ、十字軍がエルサレムへ侵攻しました。その時、遠征した人々は遠くの土地から植物を持ち帰りました。これらの植物の目的は花の観賞ではなく、食用や薬用の為でした。また室外へ植える為、現在の室内で楽しむ観葉植物とは主旨が異なります。もちろん当時でも園芸的な楽しみがあったと思いますが、観葉植物という概念はまだありません。
十字軍

大航海時代

17世紀に大航海時代が始まると、やがて植物学者が商船に同乗するようになりました。商船は、有用であるとものの他にも珍しくて観賞価値のある植物を探し出し、それらを本国へ持ち帰るようになりました。
1768年、イギリスの植物学者であるジョセフ・バンクスはジェームズ・クック船長の「エンデバー」の航海に参加し、3600もの植物標本をイギリスに持ち帰りました。その内1400種は、新発見でした。今でいう、プラントハンターです。
ジョゼフ バンクス

キューガーデンの誕生

その後も様々な人々集められた植物たちは、キューガーデンに持ち込まれました。
キューガーデンの当初の役割も十字軍と同じ様に資源として活用できる植物の研究でしたが、研究対象は採集された全ての植物に及ぶため、膨大なものとなりました。
キューガーデンが歴史的に果たした役割は大きく、2003年には世界遺産に登録されました。



キューガーデン

関連ページ

Royal Botanic Gardens, Kew

ブルジョワジーの台頭

大航海時代を経て、イギリスでは港湾貿易などで豊かになった中産(有産)階級(ブルジョワジー)が現れ始めました。
彼らは珍しくエキゾチックな植物に興味を持ち、室内に観葉植物を取り入れる事がやがてステイタスとなりました。
また、イギリスでは中産階級向けにタウンハウスと呼ばれる3-4階建ての連続した建物と、タウンスクエアと呼ばれるタウンハウスに囲まれた庭園広場が数多くつくられました。
さらに熱帯植物の室内鑑賞を可能にしたのは、セントラルヒーティングの暖房設備でした。
イギリスでは1700年代中頃から、ボイラーによる蒸気暖房が始まっていたのです。
このように観葉植物の栽培はイギリスをはじめヨーロッパで大きな情熱とともに発展しました。
タウンハウス

日本における観葉植物の起源

一方、日本では万年青(おもと)という独自の古典観葉植物の文化が流行りました。
きっかけは、江戸城入場の際に家臣が徳川家康に万年青を献上したことといわれています。大名から庶民まで幅広く栽培されました。
斑の入り方、縞や矮性のもの等品種に富み、その色や形などの特徴を芸と呼び、栽培を通じて競い合うように、その芸に磨きをかけていったのです。

画像の神社は、上野東照宮に使われている隙塀(すきべい)と呼ばれている塀です。社殿の東西南北を囲んでおり、上段には野山の動物と植物、下段には海川の動物の彫刻が塀の内外両面に描かれており、その中に万年青も描かれています。
万年青 おもと
透塀 上野東照宮 万年青 
上野東照宮 万年青

関連ページ

上野東照宮

明治頃の日本の園芸文化

急速な近代化が進む明治時代、それでもまだ自動車も無い時代です。
植物を荷車に乗せたり、棒手振りで売ったりという時代でした。

出典:ニューヨーク公立図書館デジタルコレクション

出典:ニューヨーク公立図書館デジタルコレクション



アメリカ人画家である、ロバート・フレデリック・ブルーム(Robert Frederick Blum)は、1890年頃(明治23年)に来日し、当時の日本の花市場の風景を描きました。

写真や絵画に描かれているものは切り花や盆栽の類で、いわゆる室内向けの観葉植物では無いことが伺えます。
昔の花市場

日本における観葉植物の普及

今日のように一般家庭でも現在のような観葉植物が普及してきたのは、戦後になります。
人々はモダンな住宅に住むようになり、自動車や物流網の発達によって観葉植物は急速に普及していきました。

特に愛知県では、もともと電照菊などの切花栽培が盛んな地域でしたが、菊の栽培競争が激しくなる中で、新たな活路として観葉植物の生産を行う人たちが増えていきました。愛知県には、1954年(昭和34年)日本観葉植物株式会社が設立されました。この会社は現在の日本最大の花卉園芸市場である、豊明花き市場の前身です。これにより、生産した植物の流通網が確立され、観葉植物が全国へ普及していくことになります。

当社の前身となる、株式会社大十園もこの頃から本格的な観葉植物生産を始めることになります。
松原団地